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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・ランシエールのフリッツ・ラング論

*Jacques Rancière : D'une chasse à l'homme à une autre : Fritz Lang entre deux âges, in La Fable cinématographique (Seuil, 2001)

 フリッツ・ラングがハリウッドで撮った『ルージュ殺人事件』(1956)は、ドイツ時代の『M』(1931)のある種のリメイクと見なすことのできる作品だ。

 いずれも孤独なサイコパスによる連続殺人事件を扱っている。

 いずれにおいてもラング一流のラディカルな相対主義が善悪の基準に激しく揺さぶりをかけ、痛烈きわまりないアイロニーをかもしだしている。

 『M』の犯人は悪漢たちの自警団に裁きを受ける。『ルージュ殺人事件』では、ジャーナリストたちが殺人犯以上の悪人として描かれる(物語の中心は犯人探しではなく、新聞社内の権力闘争である)。

 ジャック・ランシエールがこの二作品を興味深い観点から比較している。

 『ルージュ殺人事件』で、ダナ・アンドリュース演じるジャーナリストのモブレーが、テレビ画面を通して連続殺人事件の犯人に呼びかける場面がある。

 モブレーは、犯人に話しかけることで犯人に正体を現すようにし向けるというアイディアを思いつく。この計画は、一見すると矛盾している。殺人犯に話しかけるには、殺人犯が誰かを知っている必要がある。殺人犯が誰かを知っているなら、すでに正体が明かされていることになる。いかに権謀術数に長けたポルフィーリイでも、ラスコーリニコフが彼のもとに赴かなければなすすべがないだろう。しかし、モブレーは判事ではない。テレビのジャーナリストだ。自分の知らない人に正面から話しかけることは、毎晩8時にしていることだ。それゆえ、その晩、彼はスタジオ入りして、いつものように視聴者たちに話しかけると同時に、特定の一人の視聴者、つまり殺人犯にも話しかける。友人の警官に教えられたわずかな手がかりをもとに、彼は殺人犯の人相書きをそらんじてみせ、殺人犯に向かって、すでに面は割れ、逮捕は近いと告げる。殺人犯を見ることなく、彼は殺人犯のほうにまなざしを投げ、そのまなざしの前に姿を現すよう声で呼びかける。そして事実、その呼びかけの最中にカメラ・ポジションの驚くべき移動が起こり、その説得の効果を前もって告げる。切り返しショットになんとテレビ受像機の前の殺人犯が映し出されるのだ。ジャーナリストを殺人犯の自宅に招き入れる文字どおりの「対面」は、同時に、télévision という語の意味[方向]そのものを逆転させる。というのも、télévisé [テレビに映されたもの=遠くから狙いをつけられたもの]はもはやテレビ受像機のなかに見られている人ではなく、テレビ受像機のなかの人によって狙いをつけられている[visé]人だからだ。télévisé はここでは殺人犯であり、自分が話題にされているその人であり、話しかけられているその人であることを認めるよう促されている。

 この状況が、刑事たちが密室で[無実の]容疑者を取り囲み、スタンドの光で責め立てて自白させようとする伝統的な取り調べの場面と比較される。

 問題は、目の前にいる容疑者に自供させることではなく、未知の犯人に対して、つきとめられていることを認めさせることだ。この戦略は取調室での状況とは別種の対面というかたちをとる。どんな刑事よりも近くにいる者との対面であり、それは彼がどんな刑事よりも遠くにいるからにほかならず、彼が自分を遠くから見ているからにほかならず、それゆえこの対面は、自分と無媒介的に親密な関係にある人との対面であり、万人に語りかけ、万人に語りかけるように自分に語りかける人との対面なのだ。

 そして、テレビ映像を通してのモブレーによる犯人宅への侵入に、『M』の刑事による家宅捜索の場面が対置される。

 留守宅に踏み込まれたとき、Mは街でつかの間の幸福を満喫している。

 サイコパスとその毒牙にかからんとしている少女のつかの間の交流を映した映像は、ほんとうにみずみずしい幸福感にあふれている。

 ランシエールによれば、このシーンは、クライマックスに向けて物語にテンポの緩急をつけるためとか、来るべき転落とのコントラストを強調するためといった、物語話法上の要請によって挿入されたシーンではない。

 ランシエールは、映画がもともと二つの異なるロジックハイブリッドだと考えている。いろいろな挿話を配分することで筋を組み立てるアリストテレス以来の物語のロジックと、カメラという機械による純粋な観照というロジックである。

 それゆえ、脚本はMを救わないが、演出には彼に人間らしい幸福の機会をとっておく余地がある。

 その意味でMは彼を追う者たちといわば共犯的な関係にあるが、『ルージュ殺人事件』のサイコパスはそうではない。彼には追跡者からの逃げ場がない。

 ランシエールは、テレビ画面を前にしたロバート・マナーズ=ジョン・バリモアJr.の画一的な表情に注意を促し、これをM=ペーター・ローレの百面相的な表情に比べてみせる。 

 これは俳優の演技力の違いではなく、各々の作品が撮られた時代における「可視性の体制(dispositif)」のちがいを反映しているとされる。

 わかりやすく言えば、その時代におけるイメージなるもののあり方が映画をモデルにしているかテレビをモデルにしているかのちがいだろう。

 マナーズの逃げ場のなさが画一的な表情、とくに歪んだ口に表れているという。

 声の差し向けと他者のまなざしの強制が彼をこの想像的な構図=逆構図のうちに閉じ込め、そこでは逃げ隠れできない。殺人者は刑事から逃げることができ、群衆の人はMのように群衆のなかにまぎれることができるが、それは遠くからあなたを面と向かってまなざす人から逃れることとはちがう。あなたを、彼があなたについて知っていることと一致させるために、つまり、あなたのなかで、あなたによって、彼が知っていることと彼が知らないこととを一致させるために遠くからまなざす人から逃れることとはちがうのだ。

 マナーズは結局、モブレーの挑発にのるかたちで、モブレーの前に姿を現すことになる。モブレーにつきつけられたアイデンティティを自らすすんで引き受け、それまでは倒錯的欲望の赴くまま機械的にふるっていた暴力を、自覚的に行使しようとするのだ……

 周知のように、ドイツ時代のラングはマブゼ博士というキャラクターを通して、テレビの催眠的な権能を予言していた。(ランシエールはそのへんのことは映画史的常識と見なしてか本論文では完全にスルーしている。)

 典型的に受動的なメディアとされ、それゆえにインタラクティブな側面の必要性が叫ばれもしてきたテレビだが、むしろ、視聴者の側からの心理的関与を否応なく強いる側面をランシエールは強調しているように思う。
 
 テレビは視聴者の頭のなかで受像機のなかから語りかけてくる人との想像的な「対面」の関係に視聴者を置くが、現実的な相手からは逃げられても、想像的なものからは逃れる余地がない。

 また、近くにいる人からは逃げられるが、遠くにいる人からは逃げられない。

 テレビはひろく万人に語りかけると同時に一人ひとりの視聴者に対して親密に語りかける。テレビが名指す「あなた」は、誰にでもあてはまるから、逆に言うと、自分はちがうと逃げを打つことができない。そんなわけで、ロバート・マナーズはまんまとモブレーの計略にのってしまうのだろう。

 思えば、『M』では警察と悪漢のそれぞれがMを追いつめるプロセスアナロジーで結びつけるために、クロスカッティングという映画技法がとても効果的に使われていた。同じように、『ルージュ殺人事件』では、切り返しショットという古典的技法がやはりこのうえなくアイロニカルに活用されているといえるだろう。ランシエール着眼点やよし。

 われわれがテレビを見ているのではなく、テレビの方がわれわれをみている。

 誰もが潜在意識のなかで抱いているこういう不安感をラングは鋭くすくいとったということではないか。

 この論文には、テレビを精神分析プロセスに関係づけた興味深い論点もふくまれているのだが、ここでは深入りしないことにする。