ラカンの『愛のコリーダ』論
*Jacques Lacan : Le Séminaire, livre XXIII, Le sinthome, Seuil, 2005.
『サントーム』は晩年のラカンの重要な講義録のひとつ。最近出た『精神分析の名著』(中公新書)に選出された21篇のなかにも、『エクリ』とならんで(なぜか?)ランクインしていた。
ジェームズ・ジョイスを症例として論じていることで有名なセミネールだが、なかに大島渚の『愛のコリーダ』についての興味深い言及がある。
ヒロインの定が恋人を殺害し、その局部を切り取るという物語のクライマックスをなすエピソードについて、ラカンはつぎのような問いをたてる。
なぜ切ってから殺さず、殺してから切ったのか?
「なぜ切り取ったのか?」というありふれた問いではないところがミソだろう。なんともするどい問いかけである。
以下の抜粋は、1976年3月16日の講義からのもの。
一本の日本映画を見た。小さな会場でね。学派のメンバーを何人か連れて行ったんだが、その人たちも私と同様、仰天したと思うね。あの映画から受けた印象を言い表すには、仰天というよりほかに言葉がない。
なぜ仰天したかというと、女性のエロティシズムについての映画であったからだ。日本映画を見に行って、まさかそんなものを見せられるとは思ってもみなかった。これを見て、日本人女性のパワーがわかりはじめた。
[……]女性のエロティシズムがここでは究極的なかたちで描かれていると思うんだが、そのかたちというのは、男を殺すという幻想につきる。でも、それでもじゅうぶんではないんだ。殺したあとでさらにその先まで行くんだよ。そのあとで……なぜそのあとで、なのか? ここで首をひねってしまう。
くだんの日本人女性は実は妾なんだが、連れ添い(partenaire)——そんなふうに呼ばれている——の性器を切り取る。女はなぜ殺すまえに切り取らないのか?
この行為は幻想であることがはっきりしている。映画のなかでは血がざばざば流れるからね。海綿体に血液が行き届かなくなるはずだと思うんだが、実は私もよくはわからない。死んだあと、どんなふうになるかは知らないんだ。
さきほど言ったように、ここで首をひねってしまう。去勢が幻想ではないことははっきりしている。精神分析における去勢の機能をはっきり位置づけるのはそんなにかんたんじゃない。幻想のなかで去勢をおもいえがくこともあり得るからね。
これについては、わたしの概念Φにたちもどることにしよう。この文字を fantasme(幻想)という単語の語頭の文字と受け取ってもらってもかまわない。
この文字は、わたしが発声(phonation)の機能(phonction)と呼ぼうとするものの諸関係を表している。それこそΦの本質だ。ふつう考えられているのとは逆なんだ。発声の機能こそ、オスそのもの、いわゆる男の代理物なんだ。
ラカンによれば、人間主体は言語活動によってじぶんの内的欲求を満足させているのだが、言語は構造的に不完全なので、欲求がすべて満たされるわけではない。その残余を埋めてくれるのが、言葉を話すときに発声器官を通じて満たされる部分的な性的満足である。ラカンによれば、幻想とは、人間が無意識のなかでこうした性的満足をおいもとめることである。
『アンコール』というセミネールで、わたしはこのΦをS(
A)という複雑な数学的文字でしかあらわせないシニフィアンで代理することに反対した。S(
A)というシニフィアン、これはΦとはぜんぜん別物だ。S(A)はそれを使って(avec)男性が性交するものじゃない。[仮にそうだとしたら]男は自分の無意識で(avec)性交すると言っているにすぎない。
S(A)とは、言語秩序であり、Φはその残余を埋める部分的な性的満足(幻想)ととればよい。
女性が幻想にいだくものについてはどうかというと、この映画がわれわれに見せてくれているのが女性の幻想だとした場合、いずれにしても、出会い(rencontre)を妨げるようななにかであることはたしかだ。
さいごのくだりは、「性的関係は存在しない」という、ラカンがこれに先立つ数年前に提出した有名なテーゼを前提している。
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ラカンによれば、人間の性的アイデンティティを保証するのは、男性器と女性器の解剖学的な差異ではなく、ファルス(象徴としての男根)をもつか(+)もたないか(−)という純粋に論理学的な差異である。
そもそも、分類には共通の単位が必要だからだ。
一方はもてるもので、一方はもたざるものである。
実は、性別のこうした定義からして、男女を結びつける要素は、そもそもの始めから存在しない。
性的関係において、男性の側はみずからにそなわるファルスを通して満足を得、満足はそこで終わってしまう。
一方、女性は満足を得るための道具(器官)をもたないので、満足をどこまでも追い求める。女性の性的なねがいは無限である。
性的関係において、男性と女性は別々の満足を追い求めているのであり、その「関係」はすれちがいとしてしかあり得ない……。
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「性的関係は存在しない」とは、ざっとこんな意味である。
そして、『愛のコリーダ』の定は、このような無限の性的ねがいを体現している。ここにラカンは「日本人女性のパワー」を見ているわけだ。
ところで、フロイト派精神分析の基本的な認識によれば、人間のねがいのいきつくところは絶対的な安息としての死の願望である。
吉蔵を愛するあまり、すれちがいの「関係」に甘んじることができない定は、吉蔵にじぶんの無限の性的ねがいを共有させようとする。男性にとってそれは究極の願望である死の願望を実現することであるほかはない。
定が吉蔵を殺したのは、吉蔵と死のなかで結びつきたいと願ったからだ。
その願いがかなった(ラカンは殺害が幻想であるとほのめかしている)からには、もはや定の性的ねがいを制限するための器官にすぎないペニスは、障害でさえなく、単に不要である……。
むりやりつじつまをあわせようとすれば、そんなふうになるのかもしれないが、定の行為をめぐるラカンの問いは、答えの如何よりも問いそのものの豊かさによってわたしたちをひきつける。
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昨年、ラカン派の領袖ジャック=アラン・ミレールを編者として、『ラカンが映画を見る/映画がラカンを見る(にかかわる)』(Lacan regarde le cinéma / Le cinéma regarde Lacan, Ecole de la cause freudienne, 2011)なる書物が刊行された。
ラカンのテクストにちりばめられた映画への微々たる言及のすべてをかき集めた十数頁の抜粋集(ここに引用した抜粋も掲載されている)と、ブノワ・ジャコ、アラン・ベルガラらを含む論者の発言と論考で構成されている。
その直前には、フーコーと映画という、やはり見方によっては不毛とも思えてしまうテーマをめぐって、コンセプトも構成もそっくりの本(『フーコー、映画に行く』Patrice Maniglier et Dork Zabunyan : Foucault va au cinéma, Bayard, 2011)がちがう版元から出たところだったので、思わず笑ってしまったものだ。