alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

アラン・バディウのヴェンダース論:アラン・バディウの映画論(2)

f:id:criticon:20190819143007p:plain


* Alain Badiou : Petit manuel d'inesthétique (Seuil, 1998) ; Cinéma (Nova Editions, 2010)

 「映画の偽の諸運動」(Les Faux mouvements du cinéma)の初出は 1994年。バディウ美学の(たぶん)代表的な著作『非美学ハンドブック』の一章を構成し、次いで『映画論集成』にも収められた。バディウの映画論のうちもっとも重要な論文であると思われる。

 バディウ美学と書いたが、バディウの芸術論は、美学とは一線を画すらしい。それは「非美学」(l'inesthétique)と呼ばれる。バディウ本人による定義はこうだ。

 非美学という言葉によって私が言いたいのは、哲学が芸術に対してもつある関係の仕方なのだが、芸術はそれじたいがさまざまな真理をつくりだすものであり、いかなる意味においても哲学にとっての対象となるものではないということを主張したい。美学省察に対して、非美学はなんらかの芸術作品の独立した実在によって生み出される厳密に哲学内の諸効果を記述する。
(『非美学ハンドブック』)

 と、聞こえはいいが、その実体はもっとも古くさい美学の再生にすぎないというランシエールによる批判もある(『美学における居心地の悪さ』)。ランシエールの主張のほうも機会があれば紹介しよう。
               

                *


 映画と映画が映し出す現実の関係については、映画の発明以来、いろいろな思考がめぐらされてきた。

 プラトン主義者を自認するバディウは、映画が現実のイデアの<分有>であると考える。

 プラトンは、たとえばテーブルの実在は、目の前にある個々のテーブルにではなく、感覚ではとらえることのできないテーブルそのものの本質、つまりイデアに宿っていると考え、目に見える個々のテーブルはその模倣にすぎないとしたのであった(それゆえプラトンは、絵に描かれたテーブルは模倣の模倣にすぎないとして、彼の共和国から芸術を追放した)。このあたり、現代人の常識的な発想とはまぎゃくである。

 映画に撮られた現実は、そのような意味での現実そのものの本質、つまりイデアを映し出している、とバディウは考える。

 マラルメは、詩に歌われた「花」がモデルである実在の花を消滅させるところに文学の本質を見出した。詩とは、言葉の現前にではなく、歌われたものの消滅そのものに宿るのだ。

 ラカンが「言葉はものの殺害である」というアフォリズムにおいて言わんとしたのも、これと似たことであると言えるだろう。

 一方、映像になることで、ものはどうなるのだろうか。

 ロマン派ヘーゲル)は、芸術がイデアを「受肉」させると考えた。芸術作品においてイデアが感覚的なかたちをとるのだと。

 映画の素材が現実そのものであると見なし、映像が「モデルそのものである」と書くアンドレ・バザンはこの考えに近いかもしれない。いずれにしても、映像のうちに現実が残存し、現前していることが重要なのだ。

 それに対してバディウは、映像がマラルメの「花」のように現実を消滅させ、不在化するという考え方にこだわる。

 イデアそのものは、映像に棲みつくのではなく、単に「通過」するだけだという。そこに痕跡だけを残して。

 映画に撮られた世界が過去の世界であることにバディウは注意を促す。

 絵画との大きなちがいは、絵画が花を「見る」ことで花のイデアを思考のうちに据えるのに対し、映画は花を「見た」ことによってそうするということにある。映画は永遠の過去の芸術であり、それは過去 (passé) が通過(passe)によって打ち立てられるという意味である。映画は訪れ(visitation)なのだ。私が見、聞いたもののうちから、通過するものとしてイデアが残存するのだ。

 こうしたイデアの「通過」ないし「訪れ」を、バディウは「運動」と言い換える。

 それは3つのレベルで起きているという。

(1)「全体的運動」

 これはイデアが映像を通じてスクリーン上に「訪れる」ことそのもののを指すらしい。

(2)「局地的運動」

 訪れたイデアが「通過」して去っていくプロセスを指すらしい。「映像がそれじたいから引き去られる」ことによって、痕跡だけを残して消滅する。ストローブにおける「可視的なものの回避」、あるいはムルナウの『サンライズ』における世界が路面電車の運動そのもののうちに消滅してしまうことがその例として挙げられている。

(3)「不純な運動」

 ここでバディウバザンの「不純な映画」論をラディカルに発展させたような論点を展開している。

 第七芸術たる映画は他の七つの芸術と野合する。あるいは不純な交友関係をもつ。映画は他の芸術ジャンルへの結びつきを内在させている。

 映画を、他の諸芸術への関係を気にせ(appréhender)ざるを得ないようなある種の全般的な空間の外で考えることなど不可能である。

 映像は、スクリーン上で他の諸芸術を出会わせ、それら諸芸術を互いに打ち消しあわせる。それ自体不在である映像は、諸芸術のこの相互消滅のなかにみずからの居場所を見つける。

 たとえば、ヴェンダースの『まわり道』(1974)でナスターシャ・キンスキー演じるミニョンというキャラクター。

 俳優の身体をともなうことによって、このキャラクターは言語化不可能な部分をそなわり、ゲーテの原作小説(『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』)をはみだす存在となる。ミニョンという映画的キャラクターは、小説から演劇(俳優は演劇の属性)をさし引いたところに誕生し、小説と演劇との差異そのもののうちに宿る。彼女のキャラクターは小説と演劇とのはざまにあるが、もはやそのどちらにも属していない。

 同様にヴィスコンティの『ベニスに死す』は、トーマス・マンの原作小説をかぎりなく音楽に接近させることによってこの「通過」を実現している。

 通過の時間性は、冒頭のシークェンスを考えてみればわかるとおりトーマス・マンの散文のリズムよりも、はるかにマーラーの『第五交響曲』のアダージョによって支配されている。イデアはここでは、愛のメランコリーと土地の精と死とのあいだの結びつきにあるのだ。ヴィスコンティは、見えるもののなかに音楽が刻み込む裂け目、それによってもはや散文ではなくしてしまう裂け目のうちにこのような[愛のメランコリー、云々の]イデアの訪れを示している。なぜなら、そこではもはや何も言葉で言われることができず、文章で書くことのできるものはないからだ。[映画の不純な]運動が言語から小説的なものを奪い、その言葉を音楽と土地[絵画的モチーフ]の不安定な境界上に引き留める。しかし、その次には、音楽と土地が互いに固有な価値を交換し、音楽が絵画的な暗示によって無効化されるが、一方で絵画としての安定性も、音楽のなかに融解するのだ。

 映画は以上3つの「運動」の「結び目」にあり、それゆえに本質的に不純な芸術である。

 ここまで「運動」と訳しておいた mouvement には、音楽の各「楽章」という意味あいも読みとれるのではないか。

 以下、バディウは『まわり道』の一場面に即して、この3つの「運動」を例示しようとしている。

 ホテルの食堂でリュディガー・フォグラー演じる主人公が詩を口ずさむのをたまたま耳にした太った男(ペーター・カーン)が、散歩に出た主人公らのあとをつけてきて、一行に自作の詩を朗読して聞かせる場面だ。

 とはいえ、かなり難解なコメントである。

 言い添えれば、『まわり道』のフランス語タイトルは Faux mouvement (偽の運動)。

 とりあえずこの場面では、

(1)「全体的運動」は、一行の散歩(「彷徨」)の「中断」というかたちをとる。詩というものが、そもそもコミュニケーションのための言語の「中断」によって生まれるのだ。

(2)「局地的運動」は、朗読を視覚化することで、朗読者の個性的なキャラクターが(あきらかにへたくそな)詩の匿名性のなかに消え去るプロセスに見られる。朗読者の現前が消え去ったあとに残るのは、「存在することの驚き」である。

(3)俳優(演劇)による小説的なものの不純化。実際、ロマンティックな詩を読むには、ペーター・カーンのルックスは過剰すぎる。この「存在論的な不安定さ」のうちに朗読者のキャラクターが宿る。

 ちなみにペーター・カーン(『ラ・パロマ』!)は、ペーター・ローレ的というべき風貌の持ち主。ジーバーベルクの『ヒトラードイツの映画』には、長々と『M』のものまねをするシーンがある。

 というわけでこの場面では、朗読という行為が、(1)「詩とは何か」、(2)「存在することの驚き」(これが「作品の真の主題」であるという)、(3)「国民的不安感」という3つのイデアを結びつけ、集約させているのだが、このイデアの「本来的にドイツ的」な結びつきのうちに、戦後ドイツの現実が宿っているとバディウは読みとっているようだ。

 バディウによれば、プラトン的なイデアとはこのように本質的に混淆的なものであるという。

 最後に、この3つの「運動」がいずれも「偽の運動」であるとの断り書きがある。

(1)個々の「全体的運動」を構成するショットなりシークェンスという「単位」は、論理学的な分割に基づいておらず、隣接、連想、矛盾、分裂によって生成する。主人公と女優(ハンナ・シグラ)を乗せた別々の列車が近づいては離れる心騒がせる運動には、遠さと近さが相互浸透するヴェンダース的な「愛」のトポロジーが見出され、『まわり道』の見せかけの物語性の実体は、このトポロジーの無限の引き延ばしにすぎないとされる。

(2)現実を消滅させ、映像そのものが消滅としてある映画は、いかなる現実の再生でもない。映画はもっともミメーシス的ならざる芸術である。あとに残るのは、なにごとかが通過した時間の効果だけである。たとえば、『黒い罠』のウェルズディートリッヒの場面に漂う「ゆるやかさ」のうちにそれが見てとれる。

(3)ひとつの芸術からもうひとつの芸術への移行などそもそも不可能だから、「不純な運動」はすぐれて偽の運動にとどまる。映画は諸芸術の「不可能な諸運動」を組織する。