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精神分析と映画をめぐる読書案内

「エロスとタナトスのはざまのモダニティー」:ピエール・マシュレのフロイト論

*Pierre Macherey : Freud : La modernité entre Eros et Thanatos(http://stl.recherche.univ-lille3.fr/seminaires/philosophie/macherey/macherey20052006/macherey12102005cadreprincipal.html

 『ヘーゲルスピノザか』(新評論)などで知られるマシュレがフロイトの文明論的テクストを論じたもの(2005年の口頭発表)。先に紹介したかれの盟友バリバール論文で言及されていたので目を通してみたが、なかなかいいことを言っている。

 マシュレは『文化における居心地のわるさ』にモダニティーについてのフロイトのラディカルな認識を読みとる。モダニティー(=文化ないし文明)は本質的に危機的な状態にあるという逆説である。「居心地のわるさ」とは「文化」に組み込まれた条件なのだ。

 わかりやすく言えば、われわれの生きる社会が「生きにくい」のは、そもそもの最初から社会というものが「生きにくい」ものでしかありえないからである。ほかの選択肢はない。「生きにくさ」は「この」社会に特有なものではなく、ひとが共同生活を成り立たせていくうえでの条件である。

 フロイトはそのことを生の欲動と死の欲動の二律背反性によって説明している。愛と憎しみと同じく両者はゼロサムの関係にはない。一方が大きくなれば、それにつれて他方も大きくなる。エロスとタナトスの板挟みになって引き裂かれている状態がわれわれの生そのものなのであり、ヘーゲルのように否定的なものをポジティブなもののうちに最終的に解消してしまうことはできないのだ。

 フロイトによれば、文化においてわれわれは二重に欲求不満を強いられている。

 まず、性的な不満足。生の欲動(エロス)はさいしょからその完遂を妨げられた「実行不可能なプログラム」なのであり、われわれはその目標をずらし、ほどほどの満足で我慢するしかない。

 また、フロイトの根本的な認識によれば、人間には破壊欲動(攻撃欲動)が内在しているのだが、共同生活を営んでいくうえではそれをも緩和させる必要がある。

 個々人の「むきだしの暴力」は、いったん共同体に委ねられ、法(権力)という別のかたちの暴力として継続される。超自我の形成はこれと同時的であり、超自我はほんらい外界にむけられるはずの攻撃欲動が内面化され、みずからの自我に向けられるにいたったものにほかならず、それじたいやはり暴力を実体とする。

 それゆえ文明が進めば暴力が減るかといえばその逆で、文化の進展とともに暴力も増大する。文明が野蛮を征伐するという現代世界にはびこる勧善懲悪的な図式は幻想でしかない。文化のなかに生きようとするかぎり、暴力を完全になくすことはできない。できるのはせいぜいその方向をずらし、緩和することだけである。

 ここから文化への憎悪がひろがる。古代への郷愁や隠遁への誘惑が生まれる。しかしフロイトにとって、そうした途はあらかじめ閉ざされている。

 「共同生活は文字どおり不可能である。それでもそれは存在する」(マシュレはこの認識をカントに帰している)。この事実をしかと見つめなければならない。

 そのかぎりでフロイトは、「絶対的に現代的でなければならない」と書いたランボーと同じ立場だ。

 野蛮から完全に脱することが定義上できないことにおいて、文化は相対的でしかあり得ない。しかし、フロイトはぎゃくにそうした相対性をポジティブに価値づけ、いわば「絶対的な相対」のうちにモダニティーのラディカルな本質をみる。

 『文化における居心地のわるさ』をフロイトはこうしめくくっている。

 わたしのみるところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどのていどまで抑えうるかだとおもわれる。この点、現代という時代こそはとくべつ興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩を遂げ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。そしてわれわれの期待は、「天上の二つの力」のいま一方である永遠のエロスが、じぶんと同じく不死身であるこの相手とのたたかいに負けないよう一所懸命にがんばってくれることにかかっている。けれども、誰がよくこのたたかいの結果と終末を予見できるであろうか。
人文書院刊『フロイト著作集3』。表記を一部変更)

 ではこの現実にどう対処していくべきなのか。フロイトの答えはこうだ。

 さいごにこの遺憾な現実への考えられる治療法を述べるに際して、フロイトはたいそう躊躇したあとで次の二つを口にする。まず、人間がもっとたがいを愛するようになればよい。これはもっともである。たとえそれによって人間相互のあいだに、そしてひとりの人間とその自我とのあいだに、新たな憎しみの種を蒔くことになってもだ。しかしあきらかにフロイトはこのような解決法を信じてはいない。それはユートピア的であると同時に危険でもあって、信用が置けない。それゆえフロイトは反対方向に目を向け、こんどはポジティブな欲動ではなく、抑制的な欲動を鍛える(cultiver)ことを提案する。[……]権力は暴力をその本質としているが、それをもっと理性の行使と結びつけようとすることはできる。

 とはいえそれは権力に「理性」を求めることではなく(それはいつなんどき独裁という狂気に反転しかねない)、権力という暴力のメカニズムをできるかぎり解明することによってである。そして科学の使命はそこにある。

 たとえば『ある幻想の未来』のなかで、フロイトはくりかえし科学の無力さを強調しているが、その無力さが科学そのものの本質に内在する限界でもあることも見逃していない。科学はその担い手である人間の心的構造に限界づけられており、人間の心的構造という枠組みを顧みずに普遍的あるいは絶対的な真理を云々することは抽象にすぎない。科学はその研究対象である世界や時代から超越しておらず、そこに内在している。

 たとえば同時代の著作である『職業としての学問』のウェーバーにも共有されるこうした科学観が、すでにスピノザのものでもあったことをマシュレは想起させる。

 スピノザが説明するところでは、賢者はじぶんが自然の一部であってこうした条件を免れることができないことを知りながらも、この道をたどりつつ神と、つまりは森羅万象と肩を並べ、それが永遠であることを知るに至り、ひいてはじぶん自身および他の人間たちと調和しながら生き、じぶんとともにかれらがより多くの完全さ (une plus grande perfection) に移行していくたすけとなる。

 フロイトも、人類の歴史における科学の絶対的な若さを指摘して科学の可能性に楽観的に期待をかける(『ある幻想の未来』)。

 科学は相対的でしかありえないが、だからといって蒙昧主義に逃げ込んではならない。ぎゃくにみずからが不完全であることを自覚し、たえず「より多くの完全さ」を求めて一歩一歩前進しつづけなければならないし、ぎゃくに言うと、永久に前進しつづけることができるのだ。

 フロイトはたしかに悲観的だが、けっして悲観主義者ではない。

 フロイトの根本的な認識によれば、「永遠の戦い」をくりひろげるエロスとタナトスのどちらかがおのずから最終的な勝利を収めることはけっしてない。ということは、われわれは状況を傍観していてもはじまらず、みずから主体的にアンガジェしなければならないということでもある。

 ここにはフロイトが好んで引くヴォルテール的な倫理(「自分の庭を耕そう」)につうじるものがたしかにある。

 モダニティーは逆説的な概念だ。モダニティーの本質である「危機」とは人間そのものの条件であるからだ。われわれはいわばそもそものさいしょからモダニティーを生きているのであり、じっさいには、モダニティーとはそれ以前の時代からの切断としてあるのではなく、モダニティーについての意識ないし自覚であり、それゆえモダニティーとは倫理的範疇なのだ。

 そのかぎりでランボーの定言命令とフロイトの「絶対的相対」は見事に通じ合う。