ヘーゲルと映画:アラン・バディウ『諸真理の内在性』
Alain Badiou : L’immanence des vérités L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018.
昨年刊行された『諸真理の内在性』の最後から2番目の節において、アラン・バディウはヘーゲルにおける映画の予見、もしくは両者の出会い損ないについて興味ふかい考察をおこなっている。
a)ヘーゲルにおける映画の予見
ヘーゲルは映画をつぎのように名付けることができたであろう。
建築、彫刻、絵画、音楽、詩につづく「第六芸術」。
あるいは、絵画、音楽、詩につづく「第四のロマン派芸術」。
もしくは、象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術につづく第四の芸術形態。
はたまた、「現代芸術」?「同時代芸術」?「最終芸術」?
疑いえない事実はヘーゲル哲学のアキレス腱である。『惑星軌道論』において、ヘーゲルはケレスが発見されたあと、火星と木星のあいだに惑星は存在しえないという純粋に観念的な理由からその存在を認めなかった(その後、ケレスは小惑星に分類された)。
これ以後ヘーゲルは、経験的な自然的事物の「実在」は、数学的手続きからではなく観察からしか生まれないと考えた(これはヴェリエによる海王星の発見によって否定される)。ここにヘーゲルは理性的推論に還元しえない経験的なものの有効性を認めるに至る。
ヘーゲルにとっては映画もまた、最終芸術である[近代]喜劇のあとにはあるはずのなかった芸術の一惑星であったのかもしれない……。
b)ヘーゲルと映画をめぐる三つの問題。
ヘーゲルは映画という芸術の存在をいかなるいみで予見しえたか?
この問いは二段階に分けられる。
1)ヘーゲルは喜劇のつぎに来る第六芸術の存在を予見しえたか?
2)ヘーゲルは映画の誕生以前にこの新芸術の特徴を予見しえたか?
くわえて、
3)ヘーゲルには、映画が芸術でないのみならず、芸術の終焉というテーゼとともに確認された非芸術であると断言する理由があったか?
ヘーゲルの哲学体系は、突然変異的に未知の芸術が誕生すると考えることを許さない。
それゆえ、映画は既存の芸術のなかから弁証法的に誕生すると想定される。
ヘーゲルによれば、近代喜劇は、詩劇の究極的形態であるとともに、詩という芸術の発展の最終形態でもある。そして詩は、ロマン派芸術の最終形態である。ロマン派芸術は、それじたい象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術という歴史の最終形態である……。
近代喜劇は芸術を溶解させることで閉じる。
ヘーゲルによれば、「芸術の目的は、精神が永遠的なものと現象性との弁証法的統一を作り出すことである。近代喜劇はこの統一をその自己破壊という形でもっぱら表す」。近代喜劇はいっさいの理想性の破壊を表している。そこにおいて「絶対的なものは、その否定的な形態の下でのみ際立つ」。
バディウは、ヘーゲルがなぜいまひとつの弁証法的展開を排除するのかと問う。この展開はこのような廃棄の廃棄となったはずである。
すなわち映画がそれである。
「映画は近代喜劇のように否定的に芸術の歴史を止めるのではなく、救いとなる全体化を真剣さと不安の入り混じった仕方で成し遂げるであろう」。
ヘーゲルの死後二十年経って、ワグナーが全体芸術のプロジェクトにのりだす。オペラが諸芸術の総合となる。
ヘーゲルはワグナー以前に、喜劇的否定性の完全な弁証法というかたちのもとに、「無と化した芸術の救いある未来」を、「最初の終わりの終わり」として導き出せたかもしれない。
d)全体性と映画
映画はいかなる意味で全体的な芸術であるのか?
まず、モンタージュの芸術であるかぎりで映画は建築である。
『戦艦ポチョムキン』はショットの時間的な建築を根本的な素材にした。
ついで、3Dによって映画は彫刻となりつつある。
3Dになることで、自然的事物が感覚的であると同時に静謐で絶対的なものとして芸術的に再構成される。『さらば、愛の言葉よ』においては、背景が覆いのような詩情をうみだして、前景に彫刻的形態を浮かび上がらせている。
また、映画はカラーの導入以前から絵画であった。映画はその運動のさなかにいくつもの繊細な静止画像をつくりだす。そこではセットと俳優の編成が、風景と肖像の芸術的な組み合わせとなる。
『最後の人』において、モノクロは色彩の不在ではなく、テーマそのものが要求するカラーにほかならない。
ギュスタフ・ドイッチュの『シャーリー』は、ホッパーの絵画をロケーションと生身の俳優で再構成し、「映画芸術が絵画への賛歌であるとともに、映画の時間的運動のなかでの絵画の模倣的再全体化であることを示している」。
音楽の時間的運動のなかで再構成された絵画の空間的不動性が映画である。
こうした弁証法離れ業を可能にするのはひとり映画のみである。
「絵画の映画的引き継ぎが絵画の弁証法的真理を構成する」。
「なんとなれば、それが絵画の運動におけるリアルを表しているからだ」。
映画はまた、時間芸術であることにおいて音楽である。
小津の「メランコリックなアダージョ」。あるいはフォードにおける、ベートーヴェンもかくやの「あらゆる地点における突然の加速」。
映画は「終わりを準備する」術においても音楽である。『イタリア旅行』のラストの“奇跡”は、ポンペイ遺跡の場面の「永遠化した」古代のカップルの映像において鋳型として準備されている。
『ワルキューレ』第3幕でも同じ「鋳型」が使われている。
『ヴェニスに死す』は「映画的時間に固有の音楽性」において際立つ。
映画はまた詩劇である。筋、俳優、台本(台詞)によって、映画はヘーゲルのいう究極的な芸術形態と結合すると同時に分離される。
『ジュリアス・シーザー』は、シェイクスピアの悲劇の輝かしく永遠の引き継ぎであり、定着である。
俳優、セット、映像、音楽といった諸要素が、映画においては、舞台には還元できない時間的秩序のうちに結びつけられる。
映画はまた叙事詩であり(『七人の侍』)、抒情詩である(『近松物語』)。
というわけで、ヘーゲルは映画を絶対的芸術として聖別化することができたはずだ。
e)映画は芸術か?
映画は芸術なのだろうか?
映画はその芸術的特異性によって、諸芸術の全体化を維持する(tenir)ことがない。
映画は一つの芸術というよりも、真の諸芸術が存在していた時代への懐古的郷愁だ。
マルローの有名な一節。「さらに映画はひとつの産業でもある」。
映画は資本主義と共産主義のあいだの根本的矛盾の時代の一芸術である。
そしてこの矛盾はヘーゲルの念頭にはなかった。それゆえに<歴史>についてのヘーゲルの思想のあらゆる側面は限定的なものにとどまる。
「映画はその落とし子であるテレビやインターネットどうよう資本の芸術的=産業的複合体であるが、芸術の絶対的運動において、映画という真理の芸術的手続きにおいて、主観的にその産業的本質をのりこえるものの手続きにおいて、そして最終的に、政治的秩序において、ハリウッドがその分裂の象徴であるものを破壊するだろう」。
現代における映画のこうした弁証法的機能のもっとも驚くべき事例は批評的ドキュメンタリー(「ドキュフィクション」)にみられる。
これは民衆的・アクティヴィスト的リアルと圧制に潜在する構造を把握する試みである。
これは映画にのみ可能な試みだ。あるしゅのイスラエル映画は、ユダヤ人とパレスティナ人の新たな平等の政治的発明を証言している。
南スーダンの状況とそこでの中国と西洋諸国の共同責任がひとの知るところとなったのは、フーベルト・ザウバーの『われわれは友人としてやってきている(Nous venons en amis)』によってであった。
ハリウッドの古典的な劇映画においては、クリント・イーストウッドのあるしゅの作品が、同時代のリアルの弁証法的曖昧さを扱っている。
テレビドラマにおいても、デヴィッド・サイモンの『トリーム』『ザ・ワイヤー』といった例外的な作品が撮られている。