トランプの時代に読むソロー(2017/03/01)
トランプ退場はトランプ主義の終焉を意味するものではありますまい。2017年3月に別の場所に書いた文章をこの機会に再掲します。
「アメリカ・ファースト」を唱えるトランプほど反アメリカ的なアメリカ人はいないでしょう。
トランプがほんらいのアメリカ的な精神をいかに歪めているかを知るために、いまこそその原点であるソローを手にとるべきときです。
トランプとソローにはいくつかの共通点がみつかります。
ソローの思想は、いまならば反グローバリゼーションとよばれる性格をそなえています。
また、ソローは「小さな政府」を信条としていました。「まったく統治しない政府が最良の政府」と述べています。
さらに、ソローは「ニュース」を嫌っていました。これはかれの時代に新聞ジャーナリズムが急速な発達を遂げたこととも関係があるでしょう。
このように、ソローとトランプにはおもてむき共通点がおおいのです。
しかし、根本的な部分では、二人の思想は正反対といっていいくらいです。
ソローは、「自己」のことを何よりも優先してかんがえよと述べています。
ソローはいわゆる博愛主義者を嫌っていました。
ソローによれば、博愛主義者はじぶんの価値観を困っている人にあてはめようとし、困っている人がほんとうにひつようとしているわけではないものを押しつけて自己満足しています。
そのいみでは博愛主義者は利己主義に陥っているのです。
そんな無駄なことに使う金があるならじぶんのために使うべきだとソローは言います。
「なるほど、溺れているひとがいれば、助けるのがとうぜんで、自然なことです。でも助けたのなら、すぐに靴の紐を結んだほうがいいでしょう。あなたはあなたの時間を作り、自由な仕事をするのです」(『ウォールデン』)。
こういう考え方は“自己中”でしょうか?
そうではありません。
ソローは人間の自己のなかには自分自身をこえた価値あるものが宿っていると考えていました。
それを正義と言い換えても、あるいは神と言い換えてもまったくかまわないのですが、いずれにしてもその価値は全人類に共有されているものです。
ですから、ときには、たとえ自分個人の利害を犠牲にしても、自身の内なるそれを救う義務が人間にはあるのです。
そのかぎりで自己への愛はすなわち他者への愛となるのです。
一方、トランプのいう「アメリカ・ファースト」は、外国人への憎悪と直結しています。
トランプにとって、他者はたんに排斥する対象でしかないのです。
これこそ“自己中”でなくて何でしょうか?
そもそも金儲けの天才と 謳われたトランプにとって、守るべきはアメリカ人そのものではなく、アメリカの「利益」です。
いっぽう、ゴールドラッシュをまのあたりにしたソローは「金を稼ぐ手段はほとんど例外なく人間を堕落させる」(『ウォールデン』)と書いています。
ここがトランプとソローの価値観の最大の分かれ目でしょう。
ソローを読めとは、ふるきよきアメリカを思い出せということではありません。
ソローの目にはすでに同時代のアメリカが腐敗しきった最悪の国(「闇につつまれたこの国」)と映っていました。
かれが森に“隠遁”したのはそのためです。
ソローは南北戦争開戦の翌年に生をまっとうしています。かれがいきたのは西部劇映画のなかの世界であり、奴隷制がまだまかりとおっていた世の中です。
かれは政治ぎらいを自認していました。政治は内臓のはたらきとおなじく、ふだんは意識しないでいられるのがいちばんだとおもっていました。
しかし行動すべきときは誰よりも先に行動しました。
ソローは、奴隷制をよしとする政府にくみすることは祖国をあやまった政府に売り渡すことだとして、人頭税の支払いを拒否して逮捕、投獄されました。
意外なことにソローはこの仕打ちをよろこんで受け入れています。
「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。[……]そこは隔離されてはいるけれどもとりわけ自由な、尊敬に値する場所であり、[……]奴隷州において、自由な人間が名誉を失わずに住むことのできる唯一の家である。わたしはじぶんが監禁されているとは一瞬も感じなかった」(「市民の反抗」)。
なんともすがすがしい弁明ですね。かれはすかさずこうつけくわえます。
「かれらは、脅したりおだてたりするたびに、へまをやらかした。わたしの最大の願いが、この石壁のそとに出ることだと勘ちがいしていたからである。かれらは、かいがいしく扉に錠をおろし、私の思考を牢獄のなかに閉じこめようとするが、[……]思考はなんの妨害も受けずに、かれらのあとについて、また出ていった。じつはこの思考こそ、もっとも危険な存在だったのだ。かれらはわたしに指一本ふれることができないので、わたしの肉体を罰することにしたのである。憎らしくおもっている人間に手が出せないとわかると、相手の飼い犬をいじめたがる男の子にそっくりだった」。
なんとも痛烈な一撃です。そしてとどめ。
「このように、州は人間の知性や徳性を正面から相手にする気はさらになく、もっぱら人間の肉体と感覚だけを相手にしている。州は卓越した才能や誠実さでではなく、卓越した腕力で武装しているのである」。
ソローはつぎのように断言しています。
「わたしが確信するところでは、もし千人が、といわないまでも百人が、あるいはわたしの知っているたった十人の誠実な人間が、いや、たったひとりの誠実な人間が、ここマサチューセッツ州で奴隷の所有をやめ、政府との共犯関係からきっぱりと身を引き、そのために群刑務所に監禁されるならば、そのことがとりもなおさずアメリカにおける奴隷制度の廃止となるであろう。ことのはじまりがどれほど小さくみえようとも、すこしも問題ではないのであって、ひとたび立派になされたことは、永久になされたのである」。
ソローはみずからの行為を「静かなる宣戦布告」と呼んでいます。
「仮に千人が今年の税金を支払わないとしても、それは税金を支払うことによって州に暴力をふるわせ、無実の血を流させることほどには、暴力的で血なまぐさい手段であるとはいえないだろう。事実、もし平和革命が可能だとすれば、これこそ平和革命の定義である」。
ガンディーへと流れる無抵抗主義の系譜がここに打ち立てられます。とはいえここに説教臭さはみじんもありません。
「州に従属するよりも、州にたいする服従拒否のかどで罰されるほうが、わたしにはあらゆるいみで安くつく」。
ソローのフットワークはもちまえの倹約主義の所産なのです。
(つづく)
ジャン=クロード・ミルネールを読む(その3):『知のユダヤ人』
*Jean-Claude Milner : Le Juif de savoir (Grasset, 2006)
反ユダヤ主義はいっしゅの反知性主義(そういうことばは使われていないが)であるとの指摘から説きおこされる本書は、2004年から翌年にかけてレヴィナス研究所でおこなわれた「偶像としての知」と題するセミネールがもとになっており、ミルネール自身は『現在の傲慢』(L’Arrogance du présent, Grasset, 2009)および前号で紹介した『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』(2003年)とともに三部作をなすものとみなしているようだ。
『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』同様、ウィーン会議が本書の出発点になる。1815年以来、ヨーロッパのユダヤ人にとって「同化」が最重要課題となる。
同化の方法にはいくつかある。「富のユダヤ人」あるいは「影響力のユダヤ人」、もしくは「才能のユダヤ人」たることである。
タイトルに掲げられた「知のユダヤ人」とはこうした「同化」の諸形態のうちの一つであり、「才能のユダヤ人」とおおよそ重なるが、これはドイツに特有の形態であったとされる。
フランスでは政治的権利をつうじた「普遍的」同化が可能であったが、ドイツはそのかぎりではなかったので、いわば「知の教会」としての大学という“社会のなかの社会”をつうじての「例外的」同化に訴えるほかなかった。
ヘルマン・コーエン、フッサール、ヴァールブルク、パノフスキー(条件つきながらフロイトも)に代表される「知のユダヤ人」は19世紀にあらわれたが、この時代は「知」そのものが変貌を遂げつつあった時期に重なっている。
かれら「知のユダヤ人」がこととするのは典型的に近代知であったが、ぎゃくに近代知そのものがすぐれてドイツ的なWissenschaft のことでもあった。
そこでいう近代知は『職業としての学問』のウェーバー(ないし『知の考古学』のフーコー)が思いえがいているような知、特定の対象(価値)に縛られず、もはやいかなる対象についての知でもない自己目的的なもしくは「自律的」な知のことである。
ウェーバーが言うように、近代知においては研究者は将来の学問の進歩のために自己を捧げ、滅却する。そのかぎりで知の主体は廃棄される。それがユダヤ性の隠れ蓑にもなるということだろう。
そのいみでそれは対象と主体の双方によって規定される相対的な知ではなく絶対的な知であり、その究極のかたちがフロイトの『人間モーセと一神教』にみいだされるという。
「知のユダヤ人」において「知」はそうしたいみでの「研究」に残りなく置き換えられている。そして「研究」とはテクストについての知の厳密性を含意する。ガリレイ的な自然科学が手本にしていたのは文献学の厳密性であったことを想起せよ。
ミルネールが本書でたどるのはこうした「知のユダヤ人」の誕生と消滅である。ミルネールによれば、「知のユダヤ人」はハンナ・アーレントとともに消滅する。
アーレントは「知のユダヤ人」でありながら、社会的同化と知を通じての同化を切り離し、前者を目指した。これは「ユダヤの名」による同化と対照される。後者は同化社会の中でユダヤ性を維持しようとする行き方に対応し、ミルネール自身は同じユダヤ人としてこうした道を選択した。
のちの『フランス革命再読』においてアーレントを目の敵にしていた理由がここからもわかる。
アーレントの辿った運命をミルネールはラカンの「論理的時間」に即して描きだす。そのプロセスはおおよそ以下のようである。
(1)ガス室などあり得ない。(注視の時間)
(2)ガス室は存在していた。(了解の時間)
(3)ガス室は存在すべきではなかった。(結論の時間)
ミルネールの図式化はあまりにアクロバティックでついていくのに難儀するが(とゆうか、私はついていけてないが)、近代技術がガス室という「知」によって表象され得ないものを生み出したことによって、「知」はその絶対性を技術に譲りわたすのだとされる。
ガス室は技術のための技術である。技術の全能(マラルメの金槌どうように主をもたない)が絶対的な知の自律性にとってかわるのだ(この辺の絶対性についての議論は、『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』などでも問題になっている無限/無際限というミルネール的主題にかかわっている。これについては追い追いフォローする)。
ここで“ガウス・インタビュー”での有名な一節「母国語が残った」が援用される。つまり、ガス室のあとにドイツ文明から残ったのはドイツ語だけである。(3)はこの一節の解釈として記述される。
ミルネールは「過去の非現実」(条件法)によって過去をなかったことにできるドイツ語(だけでもないが)の特性に着目する。
そしてそれをハイデガーによる詩的言語の解釈に強引にも結びつける。それは現実を表象するのではなく、概念を創出する言葉の力だ。言葉で現実世界を写し取るのではなく、言葉自体がひとつの世界を形成するということだろう。
かくしてガス室はなかったことにされる(ホントにそうなるかは別として)。
そしてこのとき、ドイツ語はすでに学問(知)の言語ではなく、詩(文学)すなわち文化の言語になっている。かくしてアーレントとともに「知のユダヤ人」は消滅する‥‥
ガス室はアイヒマン裁判によって悪が「凡庸化」されることによって相対化されるといったことも書いてある。
ところで文献学に基づくユダヤ的知は1960年代以後、構造主義(ミルネール自身コミットした)としてフランスでリヴァイヴァルするが、これはもはやかつての絶対性を喪失している。
フランスはまた「否定のユダヤ人」にも居場所を提供した(「肯定のユダヤ人」「問いかけのユダヤ人」に対置される。前号参照)。「否定のユダヤ人」とは簡単に言えば完全な社会的同化を志向する人たちであるが、ユダヤ人の被害者的立場のみをアイデンティティの拠りどころとしてちゃっかり確保しているとして批判の対象とされている。いうまでもなく、これはミルネール自身の立ち位置ではない。
ジャン=クロード・ミルネールを読む(その2):『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』
*Jean-Claude Milner, Les penchants criminels de l’Europe démocratique, Verdier, 2003.
「“問題/解決”という図式がヨーロッパにおける“ユダヤの名”[=ユダヤ性]の歴史を規定してきた」(裏表紙)。ミルネールが本書で証し立てようとするのはこのテーゼである。
西欧はーそして西欧だけがー、18世紀以来、ユダヤ人を「解決」すべき「問題」と位置づけてきた。ナチスはその延長線上に現れただけで、「ユダヤ人問題」も「最終解決」も発明していない。それを実現するためのいくつかの手段を発明しただけだ。新しい手段(技術)によって古い「問題」を「解決」したのだ(そのいみでヒトラーは「政治のニュートン」である)。
ミルネールはラカンに依拠して「政治」と「社会」を区別する。ラカンは「性別の式」において「すべて」という観念を二つに分けている。一つは例外の存在によって制限を受ける tout であり、いまひとつはひとつの全体によって包括されない pastout(すべてならざるもの) である。
一方の「すべて」は「ひとつの限界を想定している」。「すべてについて」という句は単独では意味をもたない。「すべてのxについてFx(ファルスの作用、去勢)が成り立つ」「Fxを満たさないような要素が一つある」の組み合わせによってはじめて意味をもつ。「Fxを満たさない要素」とはすなわち去勢を行う[原]父である。ラカンにおいてこの組み合わせは男性を指示する。唯一の要素を排除することによって外部をもつ全体が形成されるわけだ。対して、いま一方の「すべて」は「限界をもたない」。こちらは「Fxを満たさないxが存在するわけではない」および「すべてのxに対してFxではない」である。これは女性の性的選択に対応する。これは例外をもたず、外部をもたず、限界をもたない、それゆえ表象不可能な全体である。
ミルネールによれば、「政治」は制限されたものを対象とする。アリストテレス以来、政治は論理学とのパラレリズムにおいて考えられていた。政治的な「万人」と論理学的な「全」は同じ普遍概念である。「民主主義/寡頭制/君主制」という図式は、それぞれ「すべて/いくつか/一」に倣う「政治的三段論法」を構成している。
この図式がフランス革命以前のヨーロッパを支配していた。17世紀は絶対王制、18世紀は啓蒙専制君主という「政府」の形態を政治的理想と仰いだが、ウィーン会議において政治的理想は特定のタイプの「政府」ではなく、あるタイプの「社会」に帰されることになる。フランス革命は「政府」の理想を自由・平等・友愛という普遍的価値すなわち「社会を定義するモデル」に見た(特にサン=ジュストの「共和的制度」)。
19世紀において「(すぐれた“政府”ではなく)“社会”が世界についての政治的ヴィジョンを組織する点として出現する」。種々雑多な政府の形態が共存した19世紀のパリはそのいみでも文字どおり世界の首都であった。あらゆる「政府」の共通項から一つの理想的な「社会」が導き出される。そしてこの共通項は1918年以後、民主主義と同一視される(それゆえ民主主義は他の政府形態と排他的な関係にはなく、他のあらゆる政府形態を内包する“社会”である)。
それまであらゆる社会には社会性が宙吊りにされる要素があったが(古典主義時代の狂気など)、1815年以後、すべての外部が社会に内面化され、例外(限界)は存在を許されなくなる。ミルネールによれば、ルソーの孤独な散歩者が意図したのはこうした社会からの逃走である。
そのような他者を欠いた社会のなかでは、主体そのものもひつぜん的に溶解する。『言葉と物』末尾の「人間」の消滅は「限界の消滅」をいみする。「砂の下に社会の石畳が現れるが、そこにはすでに顔を輪郭づけていた限界はない」。「<人間>とは限界の形象であったのだ」。新たな<一者>=<社会>。そこでは<労働><生><言語>という「準-超越論的なもの」(フーコー)の各々が社会の同義語となって超越論的に機能し、社会のあらゆる成員を絡め取る。「社会は無制限だ。それは無制限そのものだ」。
現代の「社会=国家」においては、国家も国民も人民もただひとつのものになる。もはやただ一つの国家、ただ一つの国民、ただ一つの人民しか存在しない。換言すれば、国家、国民、人民というカテゴリーじたいが不要になる。つまり「政治」そのものが消滅する。そしてユダヤ人はそのような「社会」の中の「問題」として現れる。どういうことか?
ミルネールによれば、ヨーロッパの政治理論は前述したアリストテレスの政治的三段論法およびツキディデスの歴史学に発している。ツキディデスはペロポンネソス戦争すなわちこんにちでいう世界戦争(ホメロスのトロイア戦争はこのかぎりではない)を叙述したことによってアリストテレス的な普遍(全体)の概念に連なるということらしい。ツキディデスは神、英雄、愛といった叙事詩的(ホメロス的)要素を歴史叙述から追放し、それに代えてもろもろの「人民の名」を導入した。ツキディデスにおいては個人の名さえ「人民の名」の代理にすぎず、ツキディデスを「もっとも政治的な歴史家」と形容したホッブズの民主政、貴族政といったカテゴリーも、そのような「人民の名」の言い換えにほかならない。
ユダヤ人は排他性なき“社会”の中で公然とそのような「人民の名」を標榜し、社会における例外、限界となるがゆえに社会の「問題」となる。そしてその「問題」の「解決」はふた通りある。ひとつはユダヤ人自身の内的変化、いまひとつは物理的破壊である。
モーゼス・メンデルスゾーン、ヴァールブルク、カッシーラー、パノフスキー、バンヴェニストといったユダヤ商人の子息がヨーロッパ学の泰斗となることは前者の「解決」であった。ただしこれは国ごとの近代化の度合いに依存していた。それゆえユダヤの名はドイツのユダヤ人によるフランスのユダヤ人への、またフランスのユダヤ人による他国のユダヤ人への「ナショナリズム的軽蔑」ひいては「反ユダヤ主義」によって置き換わることでユダヤ性の抹消が助長される。その後ユダヤの名はライシテないし信教の自由という「人権」に組み込まれ、これが国家によって保障されることになる。ところがモーラス的なナショナリズムは、国境を越えて偏在する(それゆえどこにもいない)ユダヤ人の「無制限」たることを以ってユダヤ名をふたたびスキャンダルに祭り上げる(ドレフュス事件)。
第一次大戦は世界を分断したが、それでも「社会」が分断することはなかった。戦勝国/敗戦国の区別は二次的なものでしかなかった。戦勝は政治形態の優位にではなく、軍事力の優位に帰された。つまりこれ以後、モデルニテとは政府の形態ではなく技術を意味するようになった。それは生産能力のみならず破壊能力をも含めての技術である。そしてこれをナチスが証明した。ナチスは「近代社会に呼応する」政治形態の創出を企図した。それは無制限に立脚する政治形態だ。フランツ・ノイマンの『ビヒモス』がえがきだす「世界全体を混沌に変貌させる」「無法とアナーキーの支配」としての国家は、ホッブズ的な国家からの離脱をいみする。
1945年のヨーロッパ統一によって、ユダヤの名はスキャンダルであることをやめる。戦後の世界平和がファシズムの壊滅という神話を必要としたからだ。中東で武器をとるユダヤ人は「最終解決」の失敗を雄弁に物語るものであった。それゆえヨーロッパはイスラエル建国とその戦勝をヒトラーへの完全な勝利と解釈してこれを言祝ぐ。
かくて「政治的神話は救われた。ただし、その代償は高かった」。政治的勝利(それはつねに軍事的勝利に支えられている)に価値をみいだす「45年のパラダイム」は民主主義的社会と折り合いが悪い。やがてこのパラダイムは「敗北は勝利よりも高貴」というヴェイユ的ヴィジョンにとって代わられるだろう。するとヨーロッパにとってイスラエルの戦勝がとたんに耐え難いものとなる。イスラエルは「最終解決」を想起させるだけの厄介な存在となる。
分断したヨーロッパ諸国が再統合を果たし、国境の意義を消去しつつあったまさにその時期にイスラエルは確固とした国境の存在を主張していた。かくしてイスラエルは「ヨーロッパ的平和」(pax europaea)の実現にとって唯一の障害となる。かつてのユダヤ人問題に代わり、いまやイスラエル問題が最終解決を要するものとして浮上する。
こうしてイスラエルの評判がわるくなると、「イスラエルの」という形容詞の影に隠れていた「ユダヤの名」がユダヤ的主体のアイデンティティとして再浮上する。その様式は三つある。1)ユダヤ性を標榜し、同化を拒む「肯定のユダヤ人」。2)ユダヤ性を否定はしない「問いかけのユダヤ人」。3)ユダヤ人にシンパシーをもたない急進主義的な「否定のユダヤ人」。
「否定のユダヤ人」においてユダヤの名はもはや実質を欠いた「剥き出しのシニフィアン」にまで切り詰められているが、それでも名は残存している。ユダヤの名はこの三者を隔てる裂け目を縫合する。ユダヤとはすでにひとつの人民の「名」としてしか存在しない。しかもそれはそもそも名が存続することのなくなった時代において残存する「人民の名」である。スピノザがいうように、ユダヤ人は長いことディアスポラ国家として存続しているので、もはやひとつの国家を形成する必要がない。フロイトの最後の問い(『人間モーセと一神教』)も、まさにユダヤの名の残存の理由についてであった。
ユダヤの名は、主体(フーコーのいう「人間」)というものが溶解したヨーロッパ的民主主義社会のなかでユダヤ人の主体性を繋ぎ止めている。このような主体性の「破壊されざる核」となる枠組みを、ミルネールはフロイトのセクシュアリティおよびハイデガー的な四方域というカテゴリーのうちにみてとる。ミルネールがフロイト的なセクシュアリティと呼ぶものは生理学的な実体性を欠くそれであり、なおかつ「性関係は存在しない」というラカン的なテーゼに帰されるそれであるとおもわれるが、ミルネールによればこれが「現代という時代の不可能そのもの」の支えとなる。「天」「地」「神的なもの」「死すべきもの」からなるハイデガーの四方域は、ミルネールにあっては「男」/「女」、「父」/「子」の四項に置き換えられ、ヨーロッパ的民主主義社会における男でもなければ女でもなく、父でも母でも子供でもない「無際限」な存在様式に対置される。
残存するユダヤの名によってこのようにして分節されるユダヤ的主体は、現代のヨーロッパ的民主主義社会においてあるいみで「人間」の典型を体現している。「ユダヤ人であることは、人類それ自体以上に人類を信じることである」。
1945年以前のユダヤ知識人はユダヤ名を科学的発見に結びつけることにより固有名を一般名詞化することでユダヤ名を忘却させた。「~主義という接尾辞が割礼を修復する」(フロイト、トロツキー)。これはフロイトが『日常生活の精神病理』において解明し、ラカンが「換喩」として概念化した「名の忘却」のメカニズムである。
これに対して1945年以後のユダヤ知識人は逆に主体の名が一般性に吸収されることを拒む。彼らは自らの「名」だけが絶滅計画の失敗の証となることを知っているから。それゆえ、彼に唯一残されたユダヤ性である「名」を残さねばならない。かれらはユダヤ的な知性とか才能とか言われるものによってみずからの名を置き換える。これは「古い名を新たな名で置き換える」ことであるという。ここにはラカン的な「隠喩」のメカニズムが機能している。置き換えられたものは痕跡を残し、置き換わったものの背後からその存在を主張しつづける(insister)。そのかぎりで新しい名はその持ち主を主体として指し示すと同時に古い名を保持している。ミルネールによれば、ここで起こっているのはいわば「世俗的な実体変化」である……(?)
今世紀、クローン技術などの影響も加わって、くだんの四方域が脅かされつつある。「新しい人権」(「解釈された」人権であり、それゆえ人権宣言のように「身体」にではなく「魂」に依拠している)が定義する人間は、男でもなければ女でもなく、父でもなければ母でも子供でもない。現代の反ユダヤ教(antijudaïsme)の内実は「四方域への憎悪」であるが、これは来るべき人類の「宗教」である。すなわち、レイシズムの対象というかたちのもとに「人民の名」を繋ぎ止めようとする努力であるということか?「レイシズムには未来がある」というラカンの言葉(じっさいには言ってない!)がいみしているのはそのことだ……。
というわけで、論理的アクロバシーを弄しがちなミルネールの個性がよくもわるくもでた晦渋ながらも刺激的な考察となっている。
ジャン=クロード・ミルネールを読む(その1):『フランス革命再読』
*ジャン=クロード・ミルネール『フランス革命再読』(Relire la Révolution, Verdier, 2016)
今世紀に入り、フランス革命再読の必要が高まっている。9.11テロは、革命なしに世界を変える出来事が起こりうる可能性を示した。これまでの世界を支配していた「革命への信」というパラダイムが過去のものになりつつあるのだろうか。
革命は例外的にギリシャ・ラテンに由来しない政治用語である。古代において、現代的な意味での革命は、conversion という語で呼ばれていた(のちにこの語は宗教的な文脈に特化させられる)。革命という名詞が現代のような意味で使われるようになったのはフランス革命以来である。フランス革命の当事者たちは革命という言葉を発明してはいないが、みずからの発明したものではない名辞に新たな意味合いを与えた。
後述するように、革命への信を生み出したのはフランス革命である。後続するロシア革命はフランス革命を参照し、さらに中国革命はロシア革命をモデルにするというように、それ以後の革命は先行する革命を参照し、これを目指すべき理想として掲げていることにおいて革命への信を共有している。フランス革命は先行する革命をもたなかったので古代を参照した。具体的にはポリビウスの循環政体論である。
ポリビウスによれば、君主制は必然的に専制に頽落する。そこから貴族制が生まれるが、貴族制は寡頭制に堕落する。そこから民主制が生まれるが、民主制は無政府主義に堕落する。ここから強者が現れて君主制に回帰する。革命とは、こうした循環においてある体制から別の体制への交代が行われる間(インターヴァル)の一つ一つを指す。
このことを踏まえていないと、ルイ16世とラ・ロシュフーコー=リアンクール男爵の有名なやりとり(「これは反乱[révolte]なのか」「いいえ閣下、革命[révolution]でございます」)における「機知」が理解できないし、革命の各段階において発せられた「革命は終れり」(反革命派ではなくほかならぬ革命派の合言葉)の意味もわからない。
実際、フランス革命の諸段階はおおよそ上のような循環的な軌跡を描いている。君主ルイ16世が暴君に変貌する。富裕なブルジョワ層・ジロンド派の支配がいわば貴族制に相当する。ロベスピエールが1793年憲法によってその支配を終わらせようとするが、けっきょく無政府主義(ジャコバン独裁)へ移行する。そしてその後の混乱の中からナポレオンという強者が現れて君主制を開始するが、これはただちに専政(帝政)へと移行する……。
このようにポリビウスにおいて革命とは二つの体制の交代を意味したが、サン=ジュストはこの定義を変更する。従来の革命は過渡期(インターヴァル)と定義されるかぎりで「永久に続いてはならない」ことを前提していた。対してサン=ジュストは、革命を「永久に落ち着くことがなく、無際限に継続される」ものと捉えている(マルクスの「永久革命」さえ共産主義体制という終着点を想定している)。
この語義変更を促したのは、ポリビウス的な法則性で説明できない予期せぬ事態が生じたからである。ヴァレンヌ逃亡事件がそれである。それまではどんな暴君も、国を裏切るようなふるまいに及ぶことはないと想定されていた。海外に逃亡して敵と手を組もうとするルイ16世の裏切りはその意味で現代的であった。ところがそれまで王の「人格」が問われるということはなかったから、この事件はルイ16世の個人的な罪ではなく、王位そのものの罪に帰される。王個人の「行為」ではなく、王の「役職」そのものが罪深いとされたのだ。そして王政が罪深いとすれば、それは人民つまり「万人」から盗みをはたらいているからだ。こうして革命という語は定義を変える。これ以後、革命とはもっぱら「万人」の権利をうち立てることを意味することとなる。つまり、民主主義的な革命以外の革命はないことになる。
それ以来、革命の実現は政治体制の交代においてその都度起こるものではなく、未来の一点に想定される目標となる。それは透視図法における消失点のように、すべてがその一点に収斂していくけれどもそれ自体の表象をもたない空虚な一点である。それゆえ「知」の対象ではなく、もっぱら「信」の対象であるということになる。ここに「革命への信」が生まれる。このような空虚な一点をミルネールはフロイト的な自我理想になぞらえて「革命<理想>」と呼ぶ。
ペトラルカが言ったように、古代の歴史家は永久にローマ帝国を讃える。たいして、現代の歴史家の営みとはこうした消失点をこそ讃え、それに照らしてフランス革命を評価することである。「現代の歴史家であるとは、フランス革命に賛成か反対かを表明することだ」。その意味では、革命派であろうと反革命派であろうと、同じ「革命への信」を共有していることになる。「反革命派も革命派以上に革命への信を信じていた」。サルトルとアレントは同時代にフランス革命にたいして正反対の評価をくだしたが、おなじ「革命への信」を共有していたのである。表象を欠いた、それじたいは無意味(ノン・サンス)であるものへの「信」であるかぎりで、革命への信は「あらゆる信のなかの信」である。ミルネールによれば、フーコーがイラン革命においてみようとしたのはこのような何ものへの信でもない「純粋な信」もしくは「空虚な信」である。そこでは誰を信じるか、何を信じるかはどうでもよく、信じることそのものが重要なのだ。フーコーは革命から「知」を剥ぎ取り、革命への信を救済しようとしたのだとミルネールはいう(「知に対抗してしか信じることはできない」)。
さらにミルネールは、このような「革命<理想>」を目指す個々の革命をフロイトの理想自我の観念に倣って「理想(的)革命」と呼ぶ。ミルネールによれば、「理想革命」とは具体的にはフランス革命、ロシア革命、中国革命を指す。イギリス革命およびアメリカ革命は革命への「信」を共有しておらず、「理想革命」には含まれない。
「理想革命」をミルネールはプロップの物語分析を援用していくつかの要件によって定義している。「理想革命」にはいくつかの共通する「身振り」(geste)があり、ミルネールはそれを9つに分類している。それはおおよそ以下のとおりである。(1)その勃発にあたって「革命」の名が宣言されること。(2)先行する革命の「革命」という呼称を参照すること。(3)被統治者が無定型の群衆ではなく、もっとももたざるものであることが明確化されていること。(4)他人のための闘争であること(「万人」のためであるとは要するに自分のためであると同時に他人のためでもあるから)。(5)個人ではなく集団を主体とすること。(6)唯一の至高者への崇拝が行われること(指導部の神格化への防壁として)。(7)国家の創設が企図されること。(8)国家形態の変更が目標になること。(9)国家は合法的に暴力を独占すること。
というわけで、サン=ジュストにおいて革命の定義は根本的に変更される。ここで興味深いのはロベスピエールのケースである。行動をともにしたサン=ジュストとはちがい、ロベスピエールはいまだポリビウス史観を信奉していた。ポリビウスによれば、革命は期限をもち、革命の終わりが来ることはすでに知られていた(ポリビウス史観は「非知」を許容しない)。それゆえ、その終わりを到来させることがロベスピールにとって焦眉の急となった。ロベスピールは「革命政府はみずからの解消を早めようとたえず努力する」という矛盾を生きた。ロベスピールにとって憲法の制定は革命という過渡期が過ぎ去り平和が到来したことを意味しているはずであり、それゆえ1793年の憲法の施行は先送りされなければならなかった。内外の世論はロベスピエールを恐怖政治と同一視していたが、ロベスピエールこそ誰よりも恐怖政治を終わらせたいと願っていた本人なのだ。テルミドール9日はいわばロベスピエール自身のプログラムの一部だった。恐怖政治は現実をポリビウス的な「知」に合致させようとする努力であるということだろう。「プログラムをあまりにもよく分析していたために、力関係を分析できなかった」。ロベスピエールはいわば「知」の殉教者なのだ。
恐怖政治は憲法の施行の条件である平和を到来させるための手段であった。ロベスピエールは群衆による虐殺を忌み嫌い、革命政府に合法的な刑の執行権を独占させた。その場合の刑とは死刑のみである(禁錮刑は事実上採用されなかった)。そしてその手段はギロチンのみである。これはより残虐な刑罰の否定をいみする。ギロチンによらない死刑を否定したことにおいてロベスピエールは死刑廃止論者である。死刑は「人民」の名において革命政府が「代行」した(革命政府は定義からして一時的なものであらねばならなかったから)。「群衆」から殺す権利を奪い、「人民」にそれを委ねたのだ(この点で革命政府は民主主義国家を予告している)。そのいみでは人民はまさに殺す権利によって定義される。「死よ万歳」(ミルネールによると、この時代に最初に唱えられた)とは死をあたえうる人民の主権を君主の如くに讃える言葉である。
ロベスピエールはポリビウス論者だったので、「革命国家」という観念は形容矛盾であり、受け入れがたいものであった。国家は定義上革命を終わらせるものだった。この点で、プロレタリア独裁を革命の本質的な段階とみなし(プロレタリア独裁はプロレタリアが存続するかぎり存続する)、革命は国家の設立を超えて継続される(革命国家は「革命」および「国家」双方の本質である)としたレーニンと対立する。レーニンのいう「一時的」とは、具体的な期間のいみではなかった。恐怖政治は革命の観念そのものに内在的であり、終わらせるのを急ぐ必要はなかった。恐怖政治はすでに戦時体制によって正当化されるものではなく、平和時における手段となる。国家の恐怖政治から恐怖政治としての国家へ。ロベスピエールはスターリンや毛沢東のように野蛮な資本主義にも人種絶対主義にも道を開かなかった。ロベスピエールは恐怖政治を終わるべきものとした。
ロベスピエールは、ロレンザッチョのように仮面のパラドクスを演じすぎたために破滅した。「群衆に歯止めをかけるために群衆と連帯し、恐怖政治を制限するために恐怖政治を体現し、死刑廃止を早めるためにギロチンを使い、平和をもたらすために戦争を指揮し、憲法を保持するためにそれを一時停止し、安定した国家をもたらすために革命をし、フーシェを倒させるためにカンボンを告発した」。
ミルネールはポリビウスとサン=ジュストを二項対立的に対置したうえで、それをいわば脱構築する(「循環史観が否定されていたときにおいてさえ循環史観が支配していた」)。革命への信が想定する線的な時間の実体は線状に置き換えられた循環的な時間である。線的な時間が想定する「新たなもの」とは、<他者>であるかぎりで、循環的な時間において回帰する「同一のもの」の別名である。いずれも「不連続な現実界を現実という連続的な時間の中に落とし込む」かぎりでは同じである。ミルネール(サン=ジュスト)にとって革命とは強制収容所と同じくレエルな出来事であり、それ自体は言語化し得ず、それゆえ主体の知を廃棄する(信に委ねられる。対してポリビウスは非知を許容しない)。ここにミルネールはポリビウスの現代性を見る。
人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」)の意義は、人間の諸権利と市民の諸権利を分離したことである。人間と市民という観念にはもともとどんな結びつきもない。人間という観念は、万人の身体的類似性に基づく(ルソーの独創性は身体への注目である。ラカンの鏡像段階論も人間的主体の成立に際して身体の類似性を前提する)。この観念が、市民と非市民との共存を可能にする(人権が市民権を支えているのであり、両者はセットではじめていみをもつ)。
人権宣言は生と死の間に保障される「権利」だけによって「人間」を定義している。こうした実体的ならざる人間の観念は、フロイト的な「人間」の観念を予告する。フーコーが『言葉と物』の末尾の一文で、波打ち際の砂の上に描かれた顔のように消滅するとした「人間」もまたこのような「人間」である。ミルネールによれば、この一文は、人権宣言の最初の一文を「アナグラムとパランプセストによって反復している」。
人権のミニマムな定義にたいし、市民権は実定法により定義がどんどん拡大される。フランスは人権の国というのは「伝説」で、むしろ市民権の国である。宣言以前には市民権はなかった。イギリスのように慣習や伝統によって市民権が与えられているという共同幻想が存在しなかったので、フランスの憲法制定者らは「市民を発明した」。ただし、市民だけに権利があるとはしなかった(『監獄の誕生』のダミアンス)。生まれたというだけで獲得される権利があるのだ。そうした非市民の権利として人権が演繹された。非市民を権利の主体として定義するために「人間」という概念が導出されたということであろう。その意味で、「人間と市民」における「と」こそが1789年の真の発明なのだ。「人間」と「市民」とは逆説的なねじれたトポロジーによって関係づけられている。「人間」とは市民の総体が構成する政治的共同体の外部、すなわち「自然」に属する存在であり、それゆえその権利も「生まれながら」(naturel)のものである。善人であれ罪ある人であれ、個人と個人を区別するあらゆるものから独立しているものが自然としての身体である。それゆえ「人間」は非実体的であり、かつ自然に属する。そうした存在に備わる権利は自然と同じく善悪を超越している。非実体的であり、かつ自然に属するとは、「語る身体」(ラカン)としての人間ということだ(じっさい、ミルネールは他の理想的革命と比してのフランス革命の独自性が、暴力への訴えではなく言論の支配にあるとする。もっとも厳格なテロルの時期にあってさえ、言論が支配する空間が保持されていた)。
マルクスは市民と区別されるかぎりでの「人間」をブルジョワ社会の「メンバー」(Mit-glied)としたが、この定義はまさに人間を身体(Glied:肢体)によって定義していることを示している。ここにおいてマルクスとフロイトの人間観のパラレリズムが確認できる。
容易に推測されるとおり、本書の仮想敵はハンナ・アレントである。アレントは全体主義批判という個人的な文脈によって客観的事実を歪曲した。ロシア革命がフランス革命を参照したことをもってフランス革命を貶めた。しかるに、アメリカ革命はナポレオンさえ行わなかったジェノサイドを行なっている。アレントはこの事実に目を塞いでいる。ミルネールのアレント批判はかなり痛烈であり痛快である。
ドミニク・ラファンという女優:クレマンティーヌ・オータン『愛していると伝えて』
*Clémentine Autain : Dites-lui que je l'aime (Grasset, 2019)
1970年代後半から80年代前半にかけて繊細で独特の美貌と強烈な存在感を放ちつつスクリーンの世界を駆け抜け、三十三歳で謎の死を遂げた女優ドミニク・ラファンは、ある世代の若者たち(筆者もそのうちもっとも年少のものらのひとりである)の熱狂的な崇拝の対象となってきた。
『愛していると伝えて』は、極左指導者ジャン=リュック・メランションに近い代議士であり、フェミニスト活動家であるクレマンティーヌ・オータンが母親であるラファンとの関係を回想した書。
本書は二人称による母親への呼びかけというかたちをとった、時間軸にとらわれずに並べられたいくつもの断章からなっている。
役柄に全身全霊を投影する演技スタイルを持ち味としたラファンは、いわゆる破滅型の表現者に分類されよう。
料理や家事はほとんどまったくせず、アルコールに溺れ、子供を育てる能力は欠如していた。親友の一人によれば「ドミニクは現実世界に錨を下ろす能力をもちあわせていなかった」。
「役柄が娘の存在の先に立ち、出演作が母娘の時間を奪ってしまった」と言う人もいる。かのじょはつねに繊細さを要求する役柄を振られていた。「映画という職業があなたを見捨てたのだ。生の怒りを演じつづけ、三十五歳で自殺したパトリック・ドゥヴェールがそうであったように」。
「ドミニク・ラファンのなかにわたしはいつもじぶんの母親を見てきた。でも母親役はあなたの最高の役柄ではなかった」。
ある日、母親は幼い著者を残して忽然と姿を消す。
「子供用のベッドで、わたしは物音で眠れないでいる。時間がどのくらい経過したのかはわからなかったが、ふと気づくと、何も聞こえなくなっている。あるいはむしろ、不穏な静寂がみなぎりわたるのが聞こえている。わたしは起き上がり、廊下へ通じるドアを開ける。誰もいない。しのび足であなたの寝室に入る。誰もいない。あなたにみつかるのをおそれて、あるいはあなたをおどろかせるのをおそれて、わたしはそっと歩く。灯りがつけっぱなしの居間のドアを押す。誰もいない。キッチンへ走る。誰もいない。あとは浴室だけ。誰もいない。私は七歳か八歳。時刻は九時か十時。わたしは家に一人きりであることを知る。窓の外を意味もなく眺めてみる。誰もいない。わたしは猛烈にこわくなる」。
この場面が著者のトラウマとなる。大人になってからも、このときのことを悪夢にみて汗びっしょりで飛び起きることがあったという。「わたしは泣かない。泣いてはいけないと教えられていたから」。
この出来事によって娘は母親への信頼を失い、母娘の絆は断ち切られる。
母親の死を知った時、十二歳の著者は鏡のまえに何時間も座り、際限なく「ママ」と呼びつづけた。『夜霧の恋人たち』のアントワーヌ・ドワネルが同じようにして思いびとの名を何度も呼んでいたように。
十代の頃、母の不在はなお著者に取り憑いていた。一緒に暮らしたアパルトマンのドアの前に佇んでみたり、母親の匂いをもっともっとかぎたいと同じ香水を買いつづけたり、モンマルトルにある墓のまわりをうろついたり……。相手が不在であるために怒りのやり場はどこにもなかった。時が経つにつれ、怒りは消えていった。
別れて暮らしていたあいだ、ラファンは親しい友人に娘に会えないことの苦しさをつねづね吐露していた。娘はこれを「愛していると伝えて」というじぶんへのメッセージとしてうけとる。いうまでもなく「愛していると伝えて」はクロード・ミレールの演出したラファンの出世作のタイトルである。
離れ離れになっているあいだ、母親はいろいろなものを娘に送ってきた。雪景色のヴェネツィアを閉じ込めたガラス玉を著者は長いこと自室に飾っていた。さながら著者にとっての“ローズバッド”であったということか?
観ることを周囲から強く勧められていた『泣く女』をはじめてみたとき、著者はリセの最終学年に進級していた。『泣く女』でラファンが演じた女性ドミニクには著者と同じ年かっこうの娘がいる。
『泣く女』はスターを迎えた作品として企画されたが、ドヌーヴにもミウミウにもオファーを蹴られた結果、ドワイヨンは恋人のラファンを起用し、みずからその相手役を演じ、自宅で撮影する低予算作品として撮ることを決意する。ドワイヨンは、ラファンと著者の関係が良好でないと判断して、娘役にはじぶんの娘ローラを起用。
著者はドワイヨンとラファンとローラがベッドにいるシーンの撮影を眺めながら、あそこにいるのがなぜ自分ではないのかと自問し、これが思い出すごとに強い不安をかきたてる思い出となった。撮影中、ドワイヨンとラファンの関係は物語中のカップルどうよう破局を迎える。
著者は学生時代に性的暴行を受けた経験によって卒論のテーマを変え、女性解放運動に生涯を捧げることを決意する。その際、指針となったのが、まさに女性解放運動の幕開けの時代に、自由で自立した女性のイメージをスクリーン上で体現していた母親にほかならなかった。
「あなたたちは喧しく議論しながら夢を語り、危険を覚悟で『否』を突きつけた楽しげな世代に属している。わたしたちは、慎重なあしどりで、危険を冒さずにいかに『諾』というかを模索する意気消沈した世代に属している。このようなシナリオのなかで、わたしたちはあなたたちに先陣を切ってもらったと恩義をかんじている。そしてわたしは自由への志向をあなたに負っているとおもっている」。
著者がもっとも親近感を覚える母親の映像は、Les Petits Calîns (1978) のなかでのもの。「葉巻をくわえ革ジャンすがたでバイクにまたがったあなたは、素敵な王子様がくるのを待つのではなく自由意志で選択することを欲する自立した女性を体現している」。スチールのなかのラファンは美容整形(男性的な価値観への服従?)以前のかたちのよくない鼻をしている。母親の秀でた頬骨をみて著者は母親とじぶんの繋がりをはっきりと意識する。
「性的なオブジェとして受け取られていることを知りながら、あなたはじぶんのことをまじめにうけとってほしい、一人前の表現者として認めてほしいと願っていた」。
パーティーの席で女性差別的な言辞を吐いたアラン・ドロンの顔に酒入りのグラスを投げつけたこともあった。「このようなふるまい、このような無礼はすべきものとはされていなかったが、あなたはそれをした」。
ラファンはどの政党にも与していなかったが、アンガジェした女優であった。親友のひとりはかのじょをアナーキストと形容する。著者によれば、むしろ「トロツキスト」であり、なによりもフェミニストであった。
ラファンの父親はジャン=マリ・ルペンとともに国民戦線を創設したブルジョワ政治家であった(著者はこの血縁者にたいして至極冷淡である)。ラファンは父親に押し付けられたカトリック教育に反発しつづけた。
「あなたはブルジョワジーをきらっていた。ブルジョワの作法、ブルジョワの規範、そしてなによりブルジョワの軽蔑を」。
かくして娘は母親のうちに政治活動家としての理想を見出す。この和解を著者は「内的な革命」として経験する。
ドミニク・ラファンの死因は自殺あるいは心臓発作によるものとされているが、かのじょをよく知る人たちはいちように自殺説を強く否定している。
著者はたまたまテレビで放映されていたマリリン・モンローのドキュメンタリーでマリリンの死が「偶然的自殺」(suicide accidentel)という言葉によって説明されているのを聞いて、この言葉が母親との葛藤からの出口になるのをかんじる。このようなオクシモロンによってはじめて母親との逆説的な関係を理解したきもちになった。
ラファンの死を知ったとき、著者の祖母はこういった。「ふしぎね。かのじょが年老いたところを想像することができなかったの」。ラファンじしん、じぶんが若死にする予感を口にしたことがあった。
アルコールに溺れる母親を見ていた著者はながいこと酒をたしなめなかった。あるときアペリティフを口にしていると、娘に「飲みすぎは毒よ」とたしなめられた。「娘にはすでにわかっているのだ。しかし娘は、このグラスがわたしにとっては当初の規律の転覆であり、あなたの裏面であることを知らない。いまではグラスを口にはこぶことができる。逆説的なことながら、これは新たな自由なのだ。わたしはもうこわくない」。
ドミニク・ラファンはいまや忘れられた女優である。著者は母親についての調査でシネマテーク・フランセーズのアーカイヴを訪れるが、ドミニク・ラファンについての資料はいっさい保管されていなかった。「あなたの記憶を消してしまったのはわたしだけではないということだ」。
ロラン・ペランがラファンに捧げたドキュメンタリーを著者はようやく観る気になる。そこでラファンについて語られる数多くの証言の抜粋が本書の掉尾を飾っている。 そこには母親の負の面しか知らない著者がはじめて知るラファンのもうひとつの顔があった。
ドミニク・ラファンの遺体がベッドで発見されたとき、その枕元には睡眠薬の瓶と、ほぼ同世代といってよい女優パスカル・オジェの二十五歳での死を伝える雑誌の頁が開かれたままになっていたという。
パスカル・オジェについては、その妹エメロード・ニコラが親友ジム・ジャームッシュ、オリヴィエ・アサイヤスらを含む数々の知人から聞き出した証言とプライヴェートなものをふくむたくさんの本人および遺品の写真と記事で構成した『パスカル・オジェ わが姉』(Filigranes Editions, 2018)が刊行されている。これほど愛に溢れた美しい書物はめったにあるものではない。『満月の夜』のセットデザインをはじめ、パスカル・オジェもまた女優という枠にとどまらぬ稀有な表現者のひとりであった。
いずれの書物もfamille recomposée といういかにもフランスらしい家族形態の産物であることを付け加えておこう。
ヘーゲルと映画:アラン・バディウ『諸真理の内在性』
Alain Badiou : L’immanence des vérités L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018.
昨年刊行された『諸真理の内在性』の最後から2番目の節において、アラン・バディウはヘーゲルにおける映画の予見、もしくは両者の出会い損ないについて興味ふかい考察をおこなっている。
a)ヘーゲルにおける映画の予見
ヘーゲルは映画をつぎのように名付けることができたであろう。
建築、彫刻、絵画、音楽、詩につづく「第六芸術」。
あるいは、絵画、音楽、詩につづく「第四のロマン派芸術」。
もしくは、象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術につづく第四の芸術形態。
はたまた、「現代芸術」?「同時代芸術」?「最終芸術」?
疑いえない事実はヘーゲル哲学のアキレス腱である。『惑星軌道論』において、ヘーゲルはケレスが発見されたあと、火星と木星のあいだに惑星は存在しえないという純粋に観念的な理由からその存在を認めなかった(その後、ケレスは小惑星に分類された)。
これ以後ヘーゲルは、経験的な自然的事物の「実在」は、数学的手続きからではなく観察からしか生まれないと考えた(これはヴェリエによる海王星の発見によって否定される)。ここにヘーゲルは理性的推論に還元しえない経験的なものの有効性を認めるに至る。
ヘーゲルにとっては映画もまた、最終芸術である[近代]喜劇のあとにはあるはずのなかった芸術の一惑星であったのかもしれない……。
b)ヘーゲルと映画をめぐる三つの問題。
ヘーゲルは映画という芸術の存在をいかなるいみで予見しえたか?
この問いは二段階に分けられる。
1)ヘーゲルは喜劇のつぎに来る第六芸術の存在を予見しえたか?
2)ヘーゲルは映画の誕生以前にこの新芸術の特徴を予見しえたか?
くわえて、
3)ヘーゲルには、映画が芸術でないのみならず、芸術の終焉というテーゼとともに確認された非芸術であると断言する理由があったか?
ヘーゲルの哲学体系は、突然変異的に未知の芸術が誕生すると考えることを許さない。
それゆえ、映画は既存の芸術のなかから弁証法的に誕生すると想定される。
ヘーゲルによれば、近代喜劇は、詩劇の究極的形態であるとともに、詩という芸術の発展の最終形態でもある。そして詩は、ロマン派芸術の最終形態である。ロマン派芸術は、それじたい象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術という歴史の最終形態である……。
近代喜劇は芸術を溶解させることで閉じる。
ヘーゲルによれば、「芸術の目的は、精神が永遠的なものと現象性との弁証法的統一を作り出すことである。近代喜劇はこの統一をその自己破壊という形でもっぱら表す」。近代喜劇はいっさいの理想性の破壊を表している。そこにおいて「絶対的なものは、その否定的な形態の下でのみ際立つ」。
バディウは、ヘーゲルがなぜいまひとつの弁証法的展開を排除するのかと問う。この展開はこのような廃棄の廃棄となったはずである。
すなわち映画がそれである。
「映画は近代喜劇のように否定的に芸術の歴史を止めるのではなく、救いとなる全体化を真剣さと不安の入り混じった仕方で成し遂げるであろう」。
ヘーゲルの死後二十年経って、ワグナーが全体芸術のプロジェクトにのりだす。オペラが諸芸術の総合となる。
ヘーゲルはワグナー以前に、喜劇的否定性の完全な弁証法というかたちのもとに、「無と化した芸術の救いある未来」を、「最初の終わりの終わり」として導き出せたかもしれない。
d)全体性と映画
映画はいかなる意味で全体的な芸術であるのか?
まず、モンタージュの芸術であるかぎりで映画は建築である。
『戦艦ポチョムキン』はショットの時間的な建築を根本的な素材にした。
ついで、3Dによって映画は彫刻となりつつある。
3Dになることで、自然的事物が感覚的であると同時に静謐で絶対的なものとして芸術的に再構成される。『さらば、愛の言葉よ』においては、背景が覆いのような詩情をうみだして、前景に彫刻的形態を浮かび上がらせている。
また、映画はカラーの導入以前から絵画であった。映画はその運動のさなかにいくつもの繊細な静止画像をつくりだす。そこではセットと俳優の編成が、風景と肖像の芸術的な組み合わせとなる。
『最後の人』において、モノクロは色彩の不在ではなく、テーマそのものが要求するカラーにほかならない。
ギュスタフ・ドイッチュの『シャーリー』は、ホッパーの絵画をロケーションと生身の俳優で再構成し、「映画芸術が絵画への賛歌であるとともに、映画の時間的運動のなかでの絵画の模倣的再全体化であることを示している」。
音楽の時間的運動のなかで再構成された絵画の空間的不動性が映画である。
こうした弁証法離れ業を可能にするのはひとり映画のみである。
「絵画の映画的引き継ぎが絵画の弁証法的真理を構成する」。
「なんとなれば、それが絵画の運動におけるリアルを表しているからだ」。
映画はまた、時間芸術であることにおいて音楽である。
小津の「メランコリックなアダージョ」。あるいはフォードにおける、ベートーヴェンもかくやの「あらゆる地点における突然の加速」。
映画は「終わりを準備する」術においても音楽である。『イタリア旅行』のラストの“奇跡”は、ポンペイ遺跡の場面の「永遠化した」古代のカップルの映像において鋳型として準備されている。
『ワルキューレ』第3幕でも同じ「鋳型」が使われている。
『ヴェニスに死す』は「映画的時間に固有の音楽性」において際立つ。
映画はまた詩劇である。筋、俳優、台本(台詞)によって、映画はヘーゲルのいう究極的な芸術形態と結合すると同時に分離される。
『ジュリアス・シーザー』は、シェイクスピアの悲劇の輝かしく永遠の引き継ぎであり、定着である。
俳優、セット、映像、音楽といった諸要素が、映画においては、舞台には還元できない時間的秩序のうちに結びつけられる。
映画はまた叙事詩であり(『七人の侍』)、抒情詩である(『近松物語』)。
というわけで、ヘーゲルは映画を絶対的芸術として聖別化することができたはずだ。
e)映画は芸術か?
映画は芸術なのだろうか?
映画はその芸術的特異性によって、諸芸術の全体化を維持する(tenir)ことがない。
映画は一つの芸術というよりも、真の諸芸術が存在していた時代への懐古的郷愁だ。
マルローの有名な一節。「さらに映画はひとつの産業でもある」。
映画は資本主義と共産主義のあいだの根本的矛盾の時代の一芸術である。
そしてこの矛盾はヘーゲルの念頭にはなかった。それゆえに<歴史>についてのヘーゲルの思想のあらゆる側面は限定的なものにとどまる。
「映画はその落とし子であるテレビやインターネットどうよう資本の芸術的=産業的複合体であるが、芸術の絶対的運動において、映画という真理の芸術的手続きにおいて、主観的にその産業的本質をのりこえるものの手続きにおいて、そして最終的に、政治的秩序において、ハリウッドがその分裂の象徴であるものを破壊するだろう」。
現代における映画のこうした弁証法的機能のもっとも驚くべき事例は批評的ドキュメンタリー(「ドキュフィクション」)にみられる。
これは民衆的・アクティヴィスト的リアルと圧制に潜在する構造を把握する試みである。
これは映画にのみ可能な試みだ。あるしゅのイスラエル映画は、ユダヤ人とパレスティナ人の新たな平等の政治的発明を証言している。
南スーダンの状況とそこでの中国と西洋諸国の共同責任がひとの知るところとなったのは、フーベルト・ザウバーの『われわれは友人としてやってきている(Nous venons en amis)』によってであった。
ハリウッドの古典的な劇映画においては、クリント・イーストウッドのあるしゅの作品が、同時代のリアルの弁証法的曖昧さを扱っている。
テレビドラマにおいても、デヴィッド・サイモンの『トリーム』『ザ・ワイヤー』といった例外的な作品が撮られている。
ジルベルト・ペレスの遺稿:『雄弁なスクリーン』
Gilberto Perez : The Eloquent Screen ― A Rhetoric of Film (University of MInnesota Press, 2019)
名著『物質的な幽霊― 映画とそのメディウム』(The Material Ghost : Film and Their Medium , Johns Hopkins University Press, 1998)で知られるジルベルト・ペレスの新著の出版は格別の驚きとともに読書界に迎えられつつある。本書『雄弁なスクリーン ― 映画の修辞』は、ペレスが2015年に亡くなる直前に脱稿していた遺稿の書籍化である。
英米の映画研究・映画批評の世界におけるペレスの影響力の大きさは、たとえば十年ちかくまえであったかに「サイト&サウンド」がおこなったベスト映画本アンケートにおいて『物質的な幽霊』に多くの票が集まったことからも容易に推し量ることができる。ちなみに同アンケートにおいて、カヴェルの『眼に映る世界』は二票にとどまり(そのうちの一票はかのトム・ガニングによるものである)、ドゥルーズ の『シネマ』に至っては一票すら獲得していないが、ペレスは現役の書き手としては例外的な票を集めていたと記憶する。
1943年、ハバナに生を享けたペレスは、若き日に同郷の作家カブレラ=インファンテの映画批評に大きな薫陶を受けた。MITで物理学を専攻した経歴がペレスの映画観に影響している。ジークフリート・クラカウアーがその映画観客論で強調し、アンドレ・バザンが「真実である幻覚」と呼んだ、「マテリアルでありながら、別の世界に移し置かれ、作り変えられた」世界、すなわち「物質的な幽霊」としての映画というヴィジョンである。
ペレスは「フレンチ・セオリー」を踏まえた明快で啓蒙的な文体と粘り強い思索力を持ち味とするモデルニテの伝道師といった人だ。強いて言えばスタンリー・カヴェルとロビン・ウッドの中間に位置するような人とでもいえようか。サラ・ローレンス大学で映画学を講じる傍ら、「イエール・レヴュー」、「ニューヨーク・タイムズ」、「ネーション」、「フィルム・コメント」、「サイト&サウンド」といった媒体に寄稿した批評家として活躍したかれが映画の領域においてアカデミズムと批評の橋渡しをつとめた功績は広く認められているところだ。
生前に刊行された唯一の著書である『物質的な幽霊』はまさにバイブル的な書物であり、裏表紙には、エドワード・サイード、スタンリー・カヴェル、ジョナサン・ローゼンバウム、ジェイムズ・ネアモアといった大家らによる賛辞が連ねられている。
『物質的な幽霊』において、ペレスはムルナウ、キートン、ドヴジェンコからアントニオーニ、ゴダール、ストローブ、キアロスタミまで、映画のモデルニテを築いてきた伝統を振り返る作業にとりくんでいる。カヴェル の『眼に映る世界』にも似て、『物質的な幽霊』はいっこの知的自伝である。
「ジェイムズ・エイジーが十代と二十代の頃に見た映画を振り返り、グリフィスやチャップリン、エイゼンシュテインやドヴジェンコの映画のうちに映画芸術の偉大な時代を見たように、わたしはいま、わたしの十代と二十代の頃に見た映画をひさしぶりに振り返り、60年代にピークを迎えた映画芸術の全盛期をそこに見る。……ひとは若い日に見た映画にたいしては初恋の感覚に似た思いをいだいて反応するという事実は意義ふかい」。
『物質的な幽霊』で提示された複数の問題意識を発展させた『雄弁なスクリーン』において論じられるのは副題にあるように「映画のレトリック」という、あるいみでいまどき流行らないテーマである。
すでにアンソロジー『アメリカの映画批評』(American Movie Critics, An Anthology from the Silents until Now, The Liberary of America, 2006)にもその一部が収録されていた序章は、フォードの『プリースト判事』の寓話的読解にあてられている。それは弁舌の才に長けた敵対候補を、別のしゅるいの「修辞」を操る口下手な主人公(ウィル・ロジャース)が打ち負かすといった寓話である。ここにおいて、映画における修辞が雄弁術における狭義の修辞とは別のとくしゅなものであるという本書の主題が明確に読みとれる(副題の不定冠詞の意味あいに注意)。
また、この序章には本書を貫く方法論もはっきりと提示されている。すなわち、雄弁と寡黙という偽の二項対立を注意深く腑分けすることによってパラドクスに追い込み、つき崩していくという論法のことである。
これ以後、本書のいたるところで、たとえば隠喩と換喩、主観と客観、ドキュメンタリーとフィクション、リアリズムとモダニズム、リアリズムとメロドラマ、バザンとブレヒト、悲劇と喜劇、「ラウンド」と「フラット」(フォースター)などなどの二項対立をめぐる同じような脱構築(??)作業が展開されることになるだろう。
最初のパートは「映画のさまざまな比喩[tropes]」と題される。グリフィス、チャップリン、ヴェルトフ、バルネット、キャプラ、清水宏からスピルバーグ、チミノ、エロール・モリス、キャサリン・ビグロー、キアロスタミに至るまでの諸作品にそくして、隠喩、換喩、提喩、アレゴリー、アイロニー、省略法、パロディーといった修辞が映画においてどのようなかたちでつかわれているかが構造主義的文学理論やウォーショー、クラカウアー、カヴェル、ジェイムソンらの映画理論を参照しつつ分析される。
次のパートは「メロドラマと映画技法」と題されている。グリフィス、シュトロハイムからミヒャエル・ハネケ、テレンス・マリック、マイク・フィギス、ヒューズ兄弟、王家衛らの作品が俎上に載せられ、クロースアップ、視点ショット、切り返し、長回し、キャメラ移動、スローモーション、ヴォイス・オーヴァー、ジャンプカット、クロスカッティング、スプリットスクリーンといったテクニックがいかにメロドラマ的表象に寄与しているかをたどる。
たとえばペレスは、アレン&アルバート・ヒューズのデビュー作『ポケットいっぱいの涙』(Menace II Society, 1993年)におけるヴォイス・オーヴァーの使い方に着目する。『サンセット大通り』とどうよう、この作品では死者によるヴォイス・オーヴァーが使われるが、ワイルダー作品ではこの技法が「アイロニー」の効果をもつのにたいし、ヒューズ作品では「悲劇」の物語話法として機能している。『ポケットいっぱいの涙』は“一人称の語りによる悲劇”という例外的な手法に訴えることによって(「例外が規則を証明する」)、物語が基づいているオイディプス・コンプレックスの図式にツイストをほどこし、アフリカ系コミュニティに固有の父性の継承のあり方を提示し得ているとされる。
「同一化」と題された短い「コーダ」では、フロイトあるいはクラインを参照しつつ、映画における同一化が距離の廃棄と維持という背反的な契機を同時に含むパラドクシカルな現象であることがヒッチコック(悪人への同一化、etc.)や『キートンの探偵学入門』を素材に論じられる。フロイトにおいてもきわめて多義的である同一化という概念は、あるいみでペレスが探求してきたすぐれてパラドキシカルなものとしての映画を象徴するようなそれであるといえようか。
(à suivre)